中山家(なかやまけ)は、藤原北家師実流花山院家の支流にあたる公家・華族だった家。公家としての家格は羽林家。華族としての家格は侯爵家。羽林家の中で侯爵に叙せられた家は中山家と四条家の2家のみである。

明治天皇の国母中山慶子の実家であり、幕末には慶子の父中山忠能、忠能の七男中山忠光など倒幕に貢献した人材を輩出した。

歴史

封建時代

藤原北家花山院家の支流である権中納言花山院忠宗の子である内大臣中山忠親を祖として平安末期に創設された。

家号は晩年に忠親が、別荘の洛東中山(現在の左京区黒谷町から岡崎周辺)に住して「中山内府」と称されたことに因む。忠親の日記『山槐記』は平安末期から鎌倉時代初頭にかけての平家興亡史の好史料となっている。

初代忠親は内大臣まで登ったが、その息子兼宗は権大納言止まりで、子孫も概ね正二位権大納言に留まったので羽林家となった。また旧家であり、外様である。

戦国時代から安土桃山時代の当主中山孝親は正親町天皇の信任厚く、織田信長が上洛してくると、権大納言勧修寺晴右、権中納言庭田重保、参議甘露寺経元とともに朝廷の使者となって信長との諸処の交渉にあたり「四人之衆」と呼ばれた。その功労、特に譲位の勅意を奉じて信長と交渉に当たったことに対する恩賞で、天正6年1月16日に没する直前となる1月13日に従一位准大臣に叙されている。初代忠親以来の大臣となった。

江戸時代の家禄は200石。家臣として諸大夫に大口家(加賀守、伊勢守)、侍に田口家があった。中山家は平堂上家の中で唯一諸大夫が置かれていた家だった。菩提寺は廬山寺。屋敷は石薬師御門にあった。

江戸時代後期の当主の愛親は、尊号一件(光格天皇が国父典仁親王に太上天皇の尊号を奉ろうとしたのに徳川幕府により妨害・阻止された事件)の際に幕府老中松平定信と対決したが、正親町公明と共に閉門に処された。徳川幕府滅亡後の明治17年(1884年)4月に明治天皇は典仁親王90年忌を期して典仁親王に慶光天皇の尊号を贈った。この際に中山愛親にも従一位が追贈され、勤王のため幕府と対決した功が賞された。その娘績子は仁孝・孝明・明治の3代の天皇に典侍として仕えて正三位まで登っている。

愛親の曾孫中山忠能は、明治天皇の生母である典侍中山慶子の父にあたり、その立場を生かして幕末に尊皇攘夷派の公卿として長州藩と連帯して京都政界で活躍したが、文久三年八月十八日の政変と禁門の変で長州藩が京都政界において失脚した後に失脚した。しかし孝明天皇の崩御に伴う大赦で復権し、同志の公卿岩倉具視や中御門経之らと共に王政復古や討幕の密勅の作成などにあたって倒幕に貢献した。

忠能の七男・忠光も尊皇攘夷派の急先鋒で天誅組の首領となり、大和国で倒幕の挙兵を行ったが、幕府軍の討伐を受けて壊滅し、忠光自身も逃れた先の長門国長府藩領で俗論派により暗殺された(天誅組の変)。徳川幕府滅亡後、明治天皇より忠光の尊皇討幕の義挙が賞され、明治3年に従四位、ついで明治31年に正四位が追贈された。

明治以降

明治維新後、忠能は新政府において議定、輔弼、神祇官知事、神祇伯などを歴任。明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家と大名家が統合されて華族制度が誕生すると中山家も公家として華族に列した。同年9月には王政復古の功により忠能に賞典禄1500石が永世下賜された。

明治3年12月10日に定められた家禄は、現米で280石6斗。明治9年8月5日の金禄公債証書発行条例に基づき家禄及び賞典禄(実額375石)の合計655石6斗と引き換えに支給された金禄公債の額は3万9657円1銭5厘(華族受給者中143位)。

明治前期の忠能の住居は東京府麹町区有楽町にあった。当時の家扶は石山友誠。

明治17年(1884年)7月7日、華族令の施行で華族が五爵制になったのに伴い忠能は侯爵に叙せられた。叙爵内規では旧公家からの侯爵は清華家と定められており、羽林家の中山家は該当しなかったが、忠能の維新の功、および忠能が明治天皇の外祖父にあたるという関係から特例で侯爵に叙せられた。忠能は位階勲等も従一位大勲位まで登っている。

忠能の長男忠愛は父に先立って明治15年に死去したため、忠能が明治21年に没した後は、忠愛の長男である孝麿が侯爵位と家督を継承した。孝麿は東京市日本橋区や麹町区の区長を務めた後、宮内省で宮内書記官や東宮侍従長、東宮大夫、宮中顧問官、帝室会計審査局長などを歴任した。大正4年の御大禮の際には側近に奉仕し、その功績で旭日大綬章を授けられた。

孝麿の子3代侯爵中山輔親の代の昭和前期に中山侯爵家の邸宅は東京市赤坂区青山南町にあった。

その子に忠敬(大正12年1月1日生)。忠敬の長男に忠和(昭和26年10月14日生)、忠和の長男に忠明(昭和60年4月27日生)がある。

歴代当主

系譜

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。

その他

  • 嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、現在の中山邸跡において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産んだ中山家の産屋と明治天皇の幼少時代の名前「祐宮」にちなんだ井戸「祐井」(さめのい)が現在も京都御苑の中山邸跡の遺構として残っている。
  • 中山家は藤原一族の男系血統を絶やさずに守り続けている家のひとつ。同じ藤原一族の中で男系血統が途絶えた際には度々養子を輩出するバックアップの面で重要な役割を果たした家で、清華家の大炊御門家、摂家の一條家も血統上は元を辿れば中山家に通じることになる。
  • 中国の革命家孫文の「中山」の号は、日本亡命中の孫文が中山侯爵家から取って名乗った「中山樵(なかやま きこり)」の名に由来する。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/68 国立国会図書館デジタルコレクション。 
  • 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。 
  • 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 中山 ナカヤマ」『姓氏家系大辞典』 第4、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、4294頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123910/459 国立国会図書館デジタルコレクション。 
  • 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。 
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。 
  • 橋本政宣『公家事典』吉川弘文館、2010年(平成22年)。ISBN 978-4642014427。 

参考

  • 日本の名字七千傑「藤原氏師実流」
  • 公卿類別譜「中山」 - ウェイバックマシン(2008年12月11日アーカイブ分)
  • 公卿類別譜「中山冷泉」 - ウェイバックマシン(2008年1月25日アーカイブ分)
  • 公卿類別譜「今城」 - ウェイバックマシン(2008年1月24日アーカイブ分)
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに参考資料』、2001年

関連項目

  • 正親町家
  • 尊号一件
  • 天誅組
  • 天誅組の変
  • 孫文

【中山家】食肉卸売店|会社概要

旧中山家住宅主屋 文化遺産オンライン

中山家住宅主屋 文化遺産オンライン

中山家関連系図 貴嶺会

中山の家 Ⅱ 施工事例 横浜で注文住宅なら木匠工務店